昭和42年9月22日 夜のご理解
信心によらなければ、真の信心生活によらなければ、人間の幸せはあり得ないとを感じる、そのことをそう思うということ。そこから、本当な信心が目指されるのであり、本当の信心修行も、また楽しゅうなるのである。ただ、信心して、その時その時におかげを頂いて行く、と。ただ、金光様の信心を頂いておりますというような時には、金光様におすがりすればといったようなだけの、けれどもことではなくて。
本当に信心のおかげを頂かなければ、人間の幸せはないのだ、と。そういう、一つの強い思いこみが、本当の信心を頂こうとする信心の方向というかね。信心の、本当の信心を頂こうとする願いが出けて、初めて、本当の信心は出ける、と。そこんところを思い込みも何も出けずに、本当の信心が出けるはずがないですね。これは、とにかく、人間の知恵力では何も出けるこっじゃないのだ、と。
神様のおかげを頂かなければ、しかも、この神様の、まあ、全てのことの中から、この神様のご守護を受け、この神様のご真意のままに動かせて頂いてこそ、初めて人間の真実の幸せがあるのだ、助かりがあるのだ、と。いわゆる、あの世この世を通して助かるためには、どうでも金光様の御信心でなからなければならんというような強い思い込みが出来る。そこから、信心が、本気で信心させてもらおうか、本気で信心のけいこをさせて頂こうということになるのです。
まず、そこんところが、分からなければ。
今日、ある方から手紙、この手紙の中に、人間の例えば幸せというものが、これは、夫婦であっても親子であっても、いわゆる、様々な人間関係ということの幸せの基調になるものは、この(和敬信)という、これは儒教から来た言葉でございましょう。というような意味のことを書いた手紙がまいりましたんですけれ、それどころじゃないな、と。その内の一つが欠けても、人間生活の人間関係の上に、楽しいとか幸せといったようなものはあり得ない。ね。
和は、平和の和ですね。敬は敬う、お互いが尊敬し合うということなんです。そこを教祖は、人、人間を軽う見なと、軽う見たらおかげはないと仰るように、もう、その、自分以外の人達をみんな、この丁重に、または、尊敬して見るということなんです。ね。
和というのは、いつも私が、和賀心の和です。自分の心が豊かであったり、本当に安らいだ心であると言うのでございます。ね。それに、この信、信ずるの信ですね。お互いが、友達は友達で信じ合わなければ、友達の幸せってないです。夫婦ちゅうものが、本当に夫婦合い信じてから、初めて夫婦の幸せがあるのだ。親子はなおさらなこと。親子が信じられない。親が信じられない、子供が信じられないち言ったら、もう、それだけでも幸せの条件というものが、大きく欠けたと同じこと。ね。
もう、たしかにそうなんです。和敬信、この三つが足ろうて、これが人間生活の幸せの基調にんるものだということ。だから、そうだなあ、ということを、先ず分からにゃいけんです。今日、私が申しました、信心によらなければ、人間の真実の幸せはないんだなあ、と分かるところからです、本気で信心のけいこをさせて頂こうかということになってくるんです。ただ、これが頼まんならんから、このことを願わんならんから、このことはお伺いしてから決めようといったような程度の信心では、まだまだ駄目だ。
信心によらなければ、人間の幸せはないのだ。あの世この世を通して、幸せなおかげを頂かせて頂くためには、どうでも、真の信心によらなければならないというところから、真の信心の道というものを求め、それを、また行じて自分のものにして行こうとする精進努力というものがなからな。ね。
人間の幸せの、一つの基調になるもの。それは、この、和敬信のどれが一つ欠けても、人間関係の幸せ、スムーズにいくということは、絶対にあり得ないのだということが、まず、分からなきゃいけん。そこで、まあ、自分の心の中に、果たして和があるか、敬はあるか、信心があるか、と。ね。そこから、言うなら、和になるところの和、いわば、和らいだ心になるためには、人を本当に、自分の周囲の全ての人を尊敬したりされるようになるためには、また、本当に人を信じれれるためには、どういうことになっておる、誰でも信じたい。特に親子なんかは、本当に信じたい。家の親を信じたい、家の子供を信じたい。誰でも願うことなんです。ところが、信じられない世界。先ずそこに、親子の幸せは、もう、大きく欠けるのです。ね。
本当に夫婦が尊重し合いたい。兄弟が、ね、誰でもがみんなに、こう、尊重し合いたい、尊敬し合いたい。ところが、あの人の姿を見ておったら、尊敬しようと思うけれども、尊敬でけないという事になるでしょう。まあ、それだけで、もう、大きく幸せな条件というものが、まあ、。ね。なくなる。
次に、自分で自分の心。ね。どうでも、和らいだ心にいつも持って行きたい。いつも、和の心を頂きたいと、こう願いはあるのだけれども、さあ、自分で自分の心一つを持て余すじゃない。はあ、どうとかならんもんじゃろうか。この自分の心というものを、本当にまちっと円満な心になれる訳にいけんのだろうか。
なりたい、なりたいと願いを持っておりながら、なら、自分の心がいつも乱れておる。いつも和とは反対の心であるということに気がついてですたい、それが、和敬信、なるほど、言うことは、らしいけれども、実際、それを自分のものにするためには、難しいということが分かって来るのです。
ですから、例えば、それでもですね、なるほど、自分が、もう、幸せな条件として、この和敬信というものが、この、私どもの心の中になからなければ、人間の私どもの幸せはないんだと分からなければいかん。まず、それが分からなきゃいけん。それが分からんで、幸せ、幸せがと言うとったって、それは雲をつかむような話。ね。ですから、その和敬信。ね。和の心、敬の心、ね、信ずる信の心。それを、なら、頂くためにはということを、言うならば、椛目では、今、朝晩、そのことを頂いてるわけなんです。
してみると、なら、その和敬信ということはですね、ただ、これは、儒教的なものでは、とどかないこと?が分かるだろうと、私は思いましたですね。いわば、修養的なものでは絶対に頂けないと思うですね。それがわかって、それが、いくらちゃんと致しましても。それを求めて行っても、これは修養ぐらいなことで、とても出来るこっじゃないということに気が付きます。和の心一つだって、敬の心一つだって、ね、信ずるということだってです、ね、そこに、私は信心のね、教祖の神様が教えて下さるような在り方にならせて頂く時にです、人を軽う見らんで済むところのおかげを頂かれる。
まちっと、自分自身が分かって来るからですね。いわゆる、和。そこんところは、だから、常日頃頂いておる和の心ですね。和らぎ賀ぶ心としては、その、和らぎの心というものを頂くためには、どういう在り方にならせて頂いたなら良いか。人を尊敬したいけれども、尊敬が出けない。けれども、こういう在り方になって行けば、自分の周囲の全ての人を尊敬することが出ける。ね。
ここんところを、また、今日は改めてお話すると、お話が非常に長くなりますよね。ところが、もう、いつもここんところを私は話しておるわけなんです。ね。同時に、信ずるということ。信ずるということは、もう、どういうことにならなければ、人は信じれないか、と。ね。和の一口に言えば、まず、人よりも、ね、自分自身が信じられる自分になることなんですよち言って。ね。
人じゃないというように、その、まあ、そのことを日頃ご理解に頂くのですけれども、例えば、今日は私、この和敬信の中から、ね、それが人間の幸せの基調になるもの、その一つが欠けても人間は幸せにならないのだという、ひとつ、思い込みというか、そういう理解。分かる、そのことが分からなければいけない。でないと、幸せになりたい、幸せになりたいと言うて、まず、精進したところで、それが雲を掴むようなもので、一生かかっても幸せになんか出来ないでしょう。ね。
ためにはです、本当に信心をいただかなければです、本当の信心生活にならなければ、人間の幸せは頂けない、その信心生活の中に、和敬信というものが、もちろん放りこまれて行くわけなんです。その信心生活ていうのは、そうならなければ、信心生活にならない。ね。だから、人間の幸せをどうでも、真の信心を頂かなければ、ただ、お参りして拝んでおりますというだけの信心から、ね、真の信心によらなければ、人間の幸せはあり得ないということを、一つ思い込みわからなければいけない。
そこから、私は本当の信心を求めての、真の道を求めての信心の態度というかね、精進というものに対する一つの楽しみとか、また、希望というものでけてくるんだと、こう思うんです。ね。今日は、その方の手紙を見せて頂いてから、そうどころじゃないな、和敬信がなからなければ、( )でも幸せはないなということは、だから、知っておる人は、まあ、あることはある。ね。信心はなくても、知ってるんだけれど、まあ、実際はそのことの難しさに、それを本気で、んなら、和の心を頂こう、敬の心を頂こう、信の心を頂こうと、本気でするところからです、その頂くことの難しさにビックリするです、本気になると。ね。和の心一つだって、もう、自分ではどうにも出けないことが分かって来るのです。円満な心になりたいのだけど、その円満な心が、なら、自分でなろうと思うて、なれるもんじゃないということが分かって来るところに、すがらなければおられない自分の精進。いわゆる、自力の力と同時にです、ね、いわゆる、他力の力。本当に神様のおかげを頂く、自分の心の送り合わせ頂かなければ、形のおくり合わせじゃないなあ、心のおくり合わせを願わなければ、和の心一つが頂けないことが分かって来るんです。ね。
というように、私はまず、そこんところを、そう分かる、そう思い込ませてもろうて、初めて、その和という字に取り組むことが出来るのであり、そこんところを思いこませて、初めて、真の信心に取り組むことが出けると思うですね。どうぞ。